昭和40年09月14日 夜の御理解



 信心生活ほど、有り難い、楽しいものはない。どういう中にあっても、信心を基にしての生活ほど有り難い、楽しいものはない。けども、信心はしておっても、信心生活をしない。生活と信心が切り離されておる。これではね、もう、信心の妙には触れることはできんです。苦しいときは、やっぱ苦しい。けども、信心生活をさせて頂いておりますとですね、苦しいことがあっても、苦しい。
 けれども、有り難い。または、楽しいものがあるのですよ。ね。ですからどうぞ一つ皆さん、折角、信心をなさるのでございますから、信心生活が出来るようにならなきゃいけんです。たとえて、申しますなら、ま、今、毎晩のようにお琴の稽古があっておりますが、その、お琴の稽古をするということは、やはり、まず、調子を合わせる。そして、それを先生がおりましてから、それを、引き方を教える。
 それにちゃんと譜があるから、その譜を見てこう引かんならん、こうせんならんと言うて教えるから、それをぎこちないながらもそれをこの引いておるうちに、一週間よりも十日め十日目よりも一月目というようにです、自分でも楽しいようにその良い音色が出てくるようになるね。これはいわば信心の稽古をさせて頂きながら、段々段々信心の稽古がです信心の生活の中に、入っていくから楽しい有り難いものになってくる。
 自分で調子が合わせられるようになり、ね。自分で様々な曲が弾じられるように、ならして頂いたら、もう愈々楽しいもの。信心生活とはそんなものである。ところが幾ら参っても拝みよってもです、もうほんとに信心の本気で稽古をしようとする人がない。もう一生懸命拝むことだけ幾ら拝んだってつまらん。信心ばかりは。ね。それは丁度なるほど、琴の前でやっているけれど、調子も何にも合わせずに、ね。
 教えて頂いた事なんかは、さあこの糸ばせんなんち言うたっちゃ、他の糸どん弾いたごたる風でもうジャンジャラジャンジャラ弾いとるだけだから、是じゃ弾いとる者も楽しくないいや脇の者の方が術なか喧しか。ね。良い音色が出て来る様になるとですたい、自分も楽しいけれども、それを周囲の聞いておるものも楽しい。成程信心生活いわば信心をしなさる家庭も違うなあと、信心のないものから見てもそういういわば見とれさせる様な、聞き取りさせる様な物が、段々生まれてこなければ駄目。ね。
 ですから折角信心の稽古をさせて頂くのでございますから、もう本気で自分が楽器の稽古をするように、楽器の前に座ったら、先ず調子の合わせ方、自分の心の調子の合わせ方をです、ね。神様と私共の心の調子というものを合わせる稽古を一生懸命しなければいけない。神様が赤であるなら私共も赤になる。神様が青でおなりになるなら、こちらも青にならせて頂こうと、と言う様な気にならなければいけんです。
 神様が水なら私共も水にならして貰わなければ、水と油じゃ一緒になれんです。何時まで経っても拝むことば、信心のごと思うとる人があるけれど、参りさえすりゃいいという人達もあるけれど、成程それでおかげを頂かん事はないけれど、いわば信心生活はでけん。信心しておっても、信心生活をしていない人がどれだけ多いか分らん。調子を覚えない人が神様と私共との間にです。
 調子をいわば合わせる、稽古をしようと努めない人が、どのくらいあるやら分らん。ね。例えば御祈念をさせて頂きよってもです、ほんとに神様と自分との心と心がこう、合流しだすというかねえ、同じような心にならして頂く。ああ今なら神様にどげなことを御願いしても、聴いて下さるなといったような時がある。その時には自分の心が、自分で自分の心を拝みたいような時なのです。
 こげなあさましか心、こげな汚い心、ね。と言うておる間は、神様といつまでたっても合流することは出来ません。汚いことばっかり言うとる。こすいことばっかり言うておる。浅ましいことばっかり思うたり、したりしておって、いつまでも神様との間に、調子が合うことはないです。そこで先ず調子を合わせることを覚えなきゃいけん。今度の御造営の事に関して、様々なそんなことを感じるですね。
 なるほど調子が合っている。合ってないそんなことを感じる。お手洗い鉢が出来ます。石屋さんが二軒、三軒、四軒廻らして頂いてま安い所もありゃ、高い所もあるんですけれども、まあ安い所のよかとこから、御願いしようと言う事になっている。ところがここ二軒だけは、まあどっちにしようかと言っている様な所がある。ところがですね、調子が神様と私共の間に調子が会うと言う事を言うとるばってん。
 調子が合いだすとですね、例えばお粥を頂かにゃならない所にゃ、きちっとちょこっと、調子が合う様になるです。ね。一の糸の調子が合うとです、二の糸例えば、三味線で言うならね。二の糸三の糸が合わなければ、いわばその良い音色は出てこないんです。今日あるやはり石屋さんが、始めからお願いしてある方ですけれども、今日見えてから色々、けれども丁度私がお取次ぎさせて頂いてた時ですもんですから。
 お話もする事も出来なかったし、そのまま久富先生に何か言うてから、わざわざ遠方から見えているのにも拘らず、その素戻りしなければならないと言った様な事であった。これなんか調子が合うてないのですよね。あぁあの石屋さんは駄目だなとこう思うんです。ところがまた午後から見えられた石屋さんなんかは、もう帰り掛けておられた。家内がお茶の用意をしよって、お茶うけでも作ったりなんかしよったから、あお茶うけが出来とるけんちょっと呼んでからあの、お茶を上げなさいと私がいうてから。
 丁度帰ろうとしよんなさるところへ、間におうたもんですから、二人連れで見えとったから二人上がって、お茶を上がったりお茶うけを頂いたりして、帰ろうかとしよんなさったところに、御造営委員長の秋永先生が、今日思いがけなくひょっこりやって来られて見えられて。お話がとんとん拍子に進んでから、も、その一番安い所の見積もりは、こういう風にして入っとるが是でして頂けるなら、お宅に御願いしたっちゃ良かですよというごたるふうに話が進んでいく。
 一番初めに見えた時なんかも、そうでした。いやあその時は四人か、五人か見えましたが、丁度お昼になってから、私がご飯をお上げなさいと言うてから、ああ皆にあげた。親先生あなたのごつああ、石屋はその注文とりにきとっとに、ご飯だしなさんならんなら、大ごつち、皆が言いよりますけれども。ほんとにその頂いていけれる、お繰り合わせを頂いておられるです。向こうが。
 そしたら、今言うごつ先ほどの石屋さんは、もうご飯が出来とるけん、用意してその上げならんごつなっとったっちゃです、その人の用があってからご無礼しますと言うて、帰らっしゃらんならんごたることだった。一番初めのそん石屋さんな。あわないでしょう、調子が。いやあこれは調子が合うていきよる。調子が合うていきよるほうを取っていきゃ間違いないということになるわけなんです。
 恐らくだから私は、今日後から見えた石屋さんが、そのお手洗い鉢も作って下さるだろうまたそこの横の、大理石でかかる事になっておりますから、それもその人が請け負われることになるだろうと私は思うんです。また頼んでもないから安心でしょうが、調子が合うていきよるから。ね。だからこの辺をです、椛目で信心させてもらうならばです、調子を例えていうならば。
 昨日、矢次さんがお参りされてからです、近いうちにお家を変らっしゃらないけん。どうでも。だからそん家探しに、昨日一日探した。ばってんきつかったばっかり残ったもんは何もなか、見当も付かなかった。調子が合うとらんでいきなり三八、歩いたっちゃつまらんち。心の調子が神様と合うてから。おかげを頂いて、神様の御用でもさせて頂いて、どうにも出来ないときにはです。
 どうしようもないごたる時は、神様の御用でもさせて頂きよりゃです、そこから調子が合うて来る、また調子を合わせる術も覚えてくる。だから調子が合うただけじゃいけんでしょ。それをやはり道によってそれを、三味線なら引かなきゃならん、琴ならば奏でなければならない。その道というものをちゃんと楽譜を一つひとつ、辿らせてもろうて、道が付くように、良い音色が出るように、ちゃんと音符が出来ておるんです。
 おかげというものは。ね。ですから例えばほんならそういうタイミングようですか、調子がちゃんと、その石屋さんと合うてさあ調子がこれは合うただけ、これから私共の信心によって、それがなるほど神ながらに見事にでけたという所まで行くに違いはない。いわゆるそういう良い音色が出てくるのじゃ。その調子を合わそうとせずに人間心ばかり使こうてから、あちらばたばたこちらばたばたしたっちゃ、きつかばぁっかり、いわゆる骨折り損のくたびれ儲けだけという事になる。
 こんな馬鹿らしい話はないでしょうが。信心はしとっても信心生活をしとらんからそうなんだ。信心させて頂くなら信心生活ほど有難いものはないと。楽しいものはないと。それは丁度調子の合うた楽器を、しかもそれを習わせて頂いて、それを弾きこなせるようになったらいよいよ楽しい。稽古さなかでも楽しい。ね。少し調子が分りだす少しといえば一曲、二曲が終わってくるとです。楽しいものが生まれてくるから、その若い人達が毎晩のように通って楽しゅう稽古に通うて見えるようなものなんです。
 椛目に信心の稽古に通うて来るでもです、ここの調子を覚えさせてもらい、ここの所の一つの楽譜というものがです、ね。これを弾かんならんあれを弾かんならんと、こうせんならん、ああせんならんと言う事をです。ね。実際の上においてから行じて行かなければ、良い音色が出る筈がないじゃないですか。ね。所々弾いただけじゃいかんです。そうでしょうが。楽譜の通りに一つ抜いてもそこだけが空いてしまう。
 混ざる飛んでしまう。ね。だから一つひとつそれを拾うて行くようにです。私はこのおかげを頂いていく所に、一日中がです今日もおかげを頂いて有難かったという、一日が終わるのですよ。ですから折角信心させて頂くのだから、そこん所を体得させて頂かなければ、私は信心の楽しみとか有難さとかいうものは無い。本に何時迄やらなんじゃろうかと。ね。毎日例えば御日参りをしとるとすんなら、ほんに毎日参らなん何時迄参ったらおかげ頂くじゃろうかち。と言うたり思うたりしょうごつなってくる。
 それこそ、ほんなら、限りなく、例えば、その、信心が上達していく。向上していくためにはです、限りなく稽古させていただかんならんのだと。しかもそれが、有難う、楽しゅう出来るというところにです、私は、本当の信心があると思うです。信心は、その稽古。ここには、その信心の稽古に通うて来るところと仰るんですから。ここには、稽古に通うてこな、いけんですよ。信心の、おかげば頂きに来るとこんごと、思うとっては間違い。おかげはわがうちで受けよと。
 稽古したことを、それを行じさせてもろうていくところに、ね。家でおかげを受けられるような、そういう答えが出てくるようになっているんです。ただ自分達だけが心配した。例えば昨日の矢次さんのような、一日がかりでです二日がかりでも、三日がかりでもさあ腰弁当下げて歩いてまわったってです、それではおかげは受けられんのです。それよりか自分の心を先ず、神様の心に照り合わせてから。
 神様と私共の間に流れてくる、交流するもの、自分で自分の心を拝みたくなるくらいにです、ひと修行させてもらい、本気で教えを行じさせてもらい、有難うならして頂く稽古をさせてもろうて、そこに調子が合うた。調子が合うごとなったら、それから先は教えて頂くことをさせて頂けば、良い音色が出らんならんごとなっとると。それをただ三味線をひざの上上げて。ジャンジャラ弾きしておるようなです。
 ものではあれどもは、信心なしよるけれども、やかましゅうして答えんち。周囲の者は言うです。なるほど信心しござるけん違うち。信心の家庭とは、ほんとに、良いものだなと、例えば上手に琴なら琴を弾かれておると、隣から聞きよって琴の音色とは、いいもんだなあと、というようにです。思わせれるようなものが、信心生活の中には、生まれてき、また、できなければ、本当の信心生活じゃないと思うですね。
   どうぞ、おかげ頂かれますように。